ブログについては、改名前の2015年秋の時点で常設と臨時の2ブログを運営していたが、敵対勢力と結託する宗教者の迫害によって一時閉鎖を余儀なくされていたものである。
また、この間に日蓮正宗・宗門からの再脱退の確定と宗教活動の禁止という一家にとっての一大局面を迎えることとなったので、ブログの再開に当たってこの件を含むいくつかの件について最新の見解を述べておかねばならない。
本記事においては、そのうち宗教からの脱退について簡単に経緯と見解を述べておく。
以前の記事でも書いたとおり、宗門への誘導を行ったのは日蓮正宗妙観講とみられる電磁波部隊であり、その目的は
- 真実の追究からスピンし続け、なおかつそちらに決して関心が行かないように宗教にのめり込ませること。
- 真実の追究に手がつけられないうちに離間工作、人物破壊工作などを行ってしまい、気付いたときには手遅れという状態にしてしまうこと。
- 宗教の教義でがんじがらめにしてしまい、なおかつ敵にとって都合のいい内容を気付かれないうちに洗脳工作で仕込んでしまい都合のいいように誘導を行うこと。更に、これを以って正常な男女交際に決して踏み込めないようにしてしまうこと。
- 上記と、思考リソースを不当に占領する策動により資格の取得などもさせず目先のものに走らせる誘導をも併施し、以って底辺に押し込めたままにして社会的抹殺に資すること
というものであった。
都合のいい誘導というのは、この薄汚い辺境の地に誘導することのみならず、その後の症状演出に端を発する医療利権への誘導、そして腎臓を悪くする薬を投与させて最終的に人工透析にまで貶めることは勿論工作に都合の良い思想を捩じ込むのに最適な環境に持ち込んでしまうことまでもが含まれる。
この入信の経緯にはいくつかの不審が存在する。
第一に、筆者が生業のために杉並に移転したタイミングを見計らって、一時的に父子関係を断絶させたことが挙げられる。この工作には、電磁波犯罪による洗脳という手段が使われた。また、この工作は同じく電磁波犯罪による洗脳工作である、鉄道趣味の焚き付け工作の直後に行われている。つまり、真実追及への機運を遮った上で敵はこの犯行に及んでいるわけである。この断絶工作は、宗教に誘導する際に私が父の顔色を伺って入信を拒むことを防ぐ目的で、また入信工作に当たって父の反対を受けて誘導が頓挫することを防ぐ目的で行われたものである。つまり、都合よく宗教に誘導するための環境整備である。
第二に、怪しまれないように前もって別の宗教(神道)に誘導しておき、その上で人為的工作において不愉快な事件や就業の破壊などを行っておいて、それを(自分たちが誘導した)神道のせいにさせるという工作が行われたことである。つまり、そのことを以って当初からの目的であったあの宗教に誘導する口実を作り上げていたということである。当家には元々宗教の信仰も初詣の習慣も無く、敵対勢力の洗脳によって初めてやらされたものであった。更に、就業の破壊については目的の宗教にそぐわない生活スタイルを破壊し、目的の宗教のスタイル(五座三座)に合わせるためでもあり、これも宗教に都合よく誘導するための環境整備だったと言える。
第三に、入信させられる端緒となった関西への撮影遠征が敵の操作によって計画に組み込まれ、敵が石之坊信徒(故人)の参詣の計画を何がしかの手段で知り得ていていてこれに合わせてスケジュールを組ませていたことである。帰りの列車内で出くわしたのは決して偶然では有り得ず、偶然を装って怪しまれないように仕組んだ謀略である。電磁波犯罪による脳波の読み取りが使われていたのか、或いは既に内通者が石之坊内に存在していたのかは明らかでない。
この三点を勘案すればするほど、この入信が敵によって仕組まれた謀略であり、私の人生を貶めて二度と浮上させないための謀略であったことは明らかな訳である。
父は、私の少年時代に何度も創価のしつこい勧誘を受けていて、そのたびに嫌な思いをしていたことを私に語っていた。そのことから、もし宗教と聞けば真っ先に反対してくるはずである。そうなると思うとおりに入信させることは難しくなってくる、そのために一時的に引き離して一人の状態にしておいて入信をさせるという卑劣な手口を取ったのである。私が敵対勢力から迫害を受ける理由も、反対者の子息であるということが多分に大きい。
その後、2005年になって現在の薄汚い辺境の地に誘導されたわけであるが、この誘導には敵によって焚き付けられた鉄道趣味が口実に用いられた。その物件には、その狭さにも拘らず仏壇を置けるような板間のスペースがあった。そのことから、これもまた私の生活をその宗教にフィットさせるための環境整備であり、後に都合よく「地元寺院」に誘導するための環境整備を兼ねていたのであった。
2014年8月15日を最後に、私は参詣を停止する決断をしているが、その理由のひとつとして、それまで約11年の間信仰を続けてきたにもかかわらず、法華講の連中が言っていたのとはかけ離れた、悲惨な結果を見ることとなっており、その現証という面からの疑問であった。
奴らは、信心すれば必ずよくなる、祈っていれば変われるなどと「安心できるウソ」で私を騙していたに過ぎず、現に石之坊からの脱退を決断した折にも「顔が良くなっている」などというまやかしの言葉が山崎の口から出ていた始末である。そういう連中なのである。別の信者は、「必ず持ち家に住める」などと抜かしていたが現実はどうか。持ち家になっていないどころか、失意のうちに薄汚い辺境の地に幽閉された状態である、これをなんと言うのか。
そこで私が得た結論は、「祈っても何も変わりはしなかった」というものであった。
後のTwitter上での一般の方とのやり取り、そして別の真実追究者の方の動画や記事で、このことが裏付けられ、脱退という選択肢が間違っていなかったことを改めて確認した次第である。
「祈ろう」というのは的外しであり、なすべきことを為させないで却って追い込み、そのことを以って殊更に信者を依存させてそこからカネを巻き上げるようになっている、これが宗教の本質である。
だから、支配勢力とも医療利権勢力ともグルであり、相互の利益のために手を結んでいるのである。それは、茨城地方部の体験発表で明らかに医療利権を利するような内容の物が複数発表され、医療利権のウソに気づいたという内容のものは発表されなかったことが物語っている。
一般の方とのやり取りでも、経緯を話したところ「それはカルトだ」との回答を得たところである。
このことに鑑み、11年後の現実というものを直視した結果、日蓮正宗からの決別と今後宗教にかかわることを一家として禁じる決断に踏み切った次第である。
既に教義のことなど大方忘れてしまっており、資料も既に無いため教義については一切答えられないが、今後宗教関係者とかかわることは、筆者として固くお断りさせていただくこととしたので諒承いただきたい。
今後は、現実を直視し、なすべき対応をきっちり行いつつ真実の追究に更に磨きをかけてゆく所存である。