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この国の支配体制について

先の記事ではおよそ3年ぶりに真実追究の筆を取り、総論としてこれまでにわかっていることを書き記してきた。
ここでは、この国の真の体制について私の見解を述べる。
また、天皇と天皇制についても後半で解説する。

この国は、企業社会主義と官僚社会主義の「二重の社会主義」によって支配されており、政治家・政党・国会などはお飾りである。
官僚・企業は米帝と閥族によってまとめられており、これらの頂点に立つのがキリスト教徒であり英国陸軍元帥である偽天皇である。
天皇は、明治維新の直後にすり替えられており本物の皇族は既にいない。
そして、米帝や完了を牛耳っているのがこの偽天皇である。
これらの手先として、国家神道(靖国神社が首魁)があり、そして創価学会、幸福の科学、オウム真理教などのカルト宗教があり、これらの中に支配層の意向によって意図的に事件を惹き起こす特務機関があると見ている。なお、創価学会については後述する。

私は、5年前の時点で二重の社会主義と権力三兄弟に気付いていたことが過去記事に明らかである。
故に敵一味に恐れられたことについてはここでは割愛する。
そこで私は、権力三兄弟とは「官僚」「マスゴミ」「企業社会主義」であると指摘している。
大体は合っているのだが、より正確に表現するならば
官僚と官僚機構
マスゴミ
企業社会
ということになる。
これらを閥族が牛耳り、そして頂点には偽天皇が君臨し、権力三兄弟の横に民衆支配の手段として宗教やヒモ付きの陰謀論者や偽被害者がいるというのが現時点での見立てになる。
下ではなく横なのは、マスゴミが権力を構成する一部であるにも拘らず支配層を構成する他の勢力からの圧力に弱いからである。
今やマスゴミは政権批判もまともに出来ず都合の悪いことは報道しないという有様である。
そしてヒモ付きどもは覚醒し真実を探す民衆の矛先を逸らし、ミスリードして真実に近づかせまいとしている。
「権力三兄弟」は五年前の見解であるゆえ、もしかすると三兄弟が四兄弟、五兄弟になったり上下関係が入れ替わる時がくるかもしれない。明日そうなったとしても何ら不思議でない。
それは、偽天皇とカルト宗教特に代替キリスト教である宗教が密接に結びついていると見られることによる。
日蓮正宗の下部団体である妙観講が事件を惹き起こした時、奴らはすぐさま圧力をかけて報道を中止させ、記事を削除させたのである。
このような圧力をかけられるのだから動画削除を自作自演するのは簡単な話なのである。
そのときの削除前の記事がこちらになる。

現在の支配層は、云うまでも無く明治維新勢力つまりキリスト教勢力に連なっている。
従って、奴らの狙いは社会の完全なキリスト教化であり、全体主義化なのである。
しかし、キリスト教の不寛容性や全体主義性は日本人の機根にはなじまないものであった。
そこでキリスト教勢力が生み出した物が、キリスト教の代わりに信仰させキリスト教的価値観を植えつけ将来的にキリスト教に帰一させるための「代替キリスト教」なのである。
古神道から改変して性的要素を取り除きキリスト教化したものが国家神道であり、靖国神社は明治維新の直後に作られた。
そして廃仏毀釈が行われ、全国の無数の仏教寺院が破却されたのである。
この廃仏毀釈こそ、代替キリスト教である国家神道を崇拝させ天皇制崇拝につなげるためのものだったのである。
そしてキリスト教的価値観や道徳を強制するための工作が行われ、一夫一婦制・家制度・家父長制というキリスト教的価値観の制度が整備されたのである。
これについて「道徳の立て直しである」などとほざいているヒモ付きがいるが、当時道徳を立て直さなければならないような状況には無く、ためにする物言いである。それを云うならば、一揆などの反抗勢力を弾圧したことを指してそのように云っているのではないのか。
このほかにも、明治維新勢力は数々の偽伝統を作り上げ、喧伝して定着させていったわけである。
その代表的なものに、明治18年に作られた初詣がある。
云うまでも無く初詣とは元日を祝うために作られたものであり、キリスト教的価値観に合わせるためのものである。
元々元日を祝う風習は日本には無く、立春を以って新年としていたのが本来の伝統である。
また神社にせよ仏閣にせよ各々に詣でるべき日取りは決まっており、それぞれに異なる日だったのであり元日に詣でる習慣など無かった。
また、現在の年越しそばも新暦つまりキリスト教歴に合わせて改変されたものであり、元々は節分に食べていたものと毎月末日に食べていた晦日そばを合造し、大晦日に食べるように改変した偽伝統である。
伝統だというのであれば新年を祝うならば立春にするべきであり、年越しそばは節分に食べるべきものである。

その捏造された価値観の浸透は都市部ほど早く、一部地方においては戦後まで江戸時代の価値観のまま残存したコミュニティがあったが、戦後レジームの中でそれも一掃されてしまったようである。

代替キリスト教は国家神道だけではなかった。
神道系や日蓮系のカルト宗教である。
通称富士門流は実質的には1400年代の怪僧、日有の数々の捏造を端緒とする異端流派であるが、元々が謀略的であったため易々とキリスト教勢力と結託するに至ったものと私は見ている。
また神道系のカルトとして大本が、日蓮系のカルトとして国柱会があり、これらは互いに結託していたと見ている。
なお大石寺門流は明治維新以後に日蓮宗興門派に組み込まれ、1900年に分離独立で日蓮宗富士派と名乗り、1912年に日蓮正宗とその名を改めている。
日蓮宗興門派とは、明治政府がその方針により日蓮系宗派の中でも日興を派祖とする流派を束ねたものであり、日有門流と決別した他の富士門流系宗派は、現在では日蓮宗(主流・身延)に束ねられている。興門派であった寺院は興統法縁会に属するものが多い。

天皇制は明治維新勢力によって捏造されたものであり、日本本来の天皇の存在意義とは異なるものである。
天皇制では天皇を「現人神」として崇めていたが、「現人神」こそキリストのことであり、これを鋭く指摘していた作家があった。幸徳秋水である。
幸徳秋水は、天皇制はキリスト教であるという鋭い指摘をしていた。しかし、故に明治政府に敵視されるようになり、疑獄事件によって処刑されてしまったのであった。
そして、その肝心の天皇は明治維新に際してすりかえられた偽皇族であると云われている。
江戸時代は、幕府が実権を握ってはいたが、その長たる将軍は形式上ではあるが朝廷から将軍職に任ぜられていた。
やはり明治維新勢力がキリスト教化のためにスリカエたのではなかろうか。
何故なら古来天皇皇族とは仏教徒であったからである。
また、天皇は英国陸軍元帥である、生きた天皇は偽物であるというのは今や特別な情報ですらない。
やらせによる戦争が終わると、天皇は人間宣言なるものをして無力化をして逃げおおそうとしたのである。
しかし、これは権力のロンダリングであり天皇を疑わせないための偽装でもある。
そして、秘密選挙による形だけの民主主義制ということにして、お飾りである国会や政治家、政党が治めているように偽装することとなったのである。
従って、今でもこの国の最高権力者は天皇皇族なのであり、国会でもなければ内閣でもない。
その天皇の権力の源は何か。それは、米軍の駐留なのである。
つまり、正規軍を作らせないことによって天皇の権力は成り立っているということである。
正規軍を作れば、その兵力を以って天皇の権力を脅かすことになりかねないためである。
天皇は、「米軍の撤退だけはダメだぞ」と官僚(高官)に命じたそうである。
しいては天皇には米軍を牛耳るほどの権力があるということにもなるのである。

明治維新から60年余り、一つの支配層団体が作られた。
その名を創価教育学会といい、その設立に日蓮正宗が関っていた。
創価教育学会は、現在の創価学会の前身であり、設立当時は支配者層の集まりであり教育者の集まりでもあった。
実際、創立メンバーにはそうそうたる面子が名を連ねており、現在の創価学会がHPで自慢するほどである。
創設者とされる牧口常三郎はクリスチャンであったといわれているが、このことがこの団体の正体と真の目的を雄弁に物語っている。
日蓮正宗が関っていながら初代代表がクリスチャンであること自体、この団体がキリスト教支配層の集まりでありこの時点で日蓮正宗も完全に代替キリスト教と化していたということである。
もとより富士門流時代から数々の偽作贋作を繰り返してきた宗派であり、キリスト教的価値観に合わせて御書を改変することなど朝飯前だったのである。
翻って現在の両団体とも日蓮ふうキリスト教そのものであり、他の傍系団体においてもそれは変わらない。
戦後になって創価教育学会は戸田城聖が創価学会と改めて凄まじい活動によって会員数を増やした。
この戸田も怪しい男で、岸信介が友人だったというではないか。
現在形の上では創価学会が破門され対立しているかのように見せかけているが、これには裏がある。
創価学会の不法行為が一般から見てあまりにも目に余るようになり、このままでは日蓮正宗も同様の危険な団体と見做される(実際そうなのだが)危険があったこと、また対立を煽ることに信者操縦法としての旨みがあることにより、裏で申し合わせて茶番を繰り広げ、表向き破門したことにしたのである。
その後大石寺に街宣右翼が押し寄せたが、この街宣右翼もまた大石寺の警備側もプロレスのようなことをやっていたのである。
街宣右翼は昼間だけ吼えて夜は宿坊で寝ていたといい、警備側は右翼のいない夜だけ見張りに出ていたというのである。
その後、大石寺の境内地にあった、創価学会系の富士美術館が撤退することとなったのであるが、本当に対立しているのであればこんなおいしい陣地を易々と手放すわけは無いのである。何しろ敵宗派の境内地にあるわけだから。
そして、美術館の敷地建物は宗門に返還される事となり、現在は宗門が宝物殿として使用している。
従って、この返還に際しては宗創の間に必ず話し合いが持たれたはずである。つまり、破門は表向きだけで、実際には裏でつながっているということになる。
更に、宗門側の某寺院が自爆発言を行った。
それは、創価の大幹部は学会葬をしていないというものである。
では、その大幹部は誰が葬儀をしているのか?
しかし、それについて当該寺院は答えていないのである。
つまり、それは答えられない内容なのである。
どういうことか?大幹部の葬儀は宗門の高僧が執り行っているということに他ならない。
更に、某週刊誌に掲載された池田大作の「日顕上人にお会いしたい」発言の暴露が、裏でつながっていることを雄弁に物語っている。
もし本当に対立しているのであれば、間違ってもそのような言が口を突いて出ることは無いのである。
以上より、今でも宗門と創価、強いては鶴丸四宗派は裏でつながっているものであるといえる。
顕正会もまた、両団体にとっての叩かれ役、デコイの役回りを引き受けているものであり、対立は表向きだけなのである。
尤も、真相を知っているのは一部の大幹部だけなので、中級クラス以下の者は対立しているものと本気で思い込んでいる。この点には注意が必要である。

今や皇族にも創価学会員がいるということであるが、そもそも学会は支配層の集まりなのであるから官僚が居ようが皇族が居ようが何ら不思議なことではない。
偽天皇偽皇族はキリスト教勢力なのであるから、まさしく仲間同士なのである。
従って、創設以来創価学会はキリスト教支配層の集まりであるのであり、日蓮正宗から見れば今でも傘下団体、別働部隊なのである。
支配層の集まりを牛耳っている時点で相当の権力であり、もしかすると権力三兄弟に並び立ち得るのが宗門なのかも知れぬ。メディアに圧力をかけるなど朝飯前な訳だ。
少なくともこんな宗教にカネを出すことは無いのである。
何でも破門直後の信徒の少ない時代でも高級の法主専用車で移動していたというから、実際には学会からかなりの資金供給を受けていたに違いない。
貧乏人の信者がわざわざカネを出さなくても宗門には有り余るほどカネがあるのだからカネなんか出すことは無い。
まさしく坊主丸儲けである。

ヒモ付きは創価を叩いてもその親玉である日蓮正宗・宗門を叩かない輩が多い。これに該当していたら、ほぼヒモ付きであると見て間違いない。それは創価をデコイにして真の画策者を隠蔽する輩に他ならないからである。

ではおさらいしよう。
官僚社会主義を構築する官僚機構、企業社会主義を構築する企業連合があり、これらの下僕、大本営発表機関としてマスゴミが存在する。
そして民衆を誑かし的ずらしして支配する(We fool you)国家神道などの代替キリスト教があり、支配層の集まりである創価学会がある。創価学会は今でも日蓮正宗宗門が牛耳っている。
これらを閥族がまとめ、そしてその頂点に偽天皇偽皇族が立つ。
これが現在の日本国内の権力構造であり、アベルフなどその下僕でしかない。
いわんをや国会も政治家も政党も全てお飾りであり、選挙など奴隷が自分で決めていると錯覚させるための権力装置に過ぎない。

私は、遠い日に消費者が消費者責任を果たせば企業社会主義は潰せると書いた。
利権だって消費者が消費者責任を果たせば潰せるだろう。
つまり消費者責任とは不必要なもの、利権まみれのもの、有害なもの、身の丈に合わないものに手を出さないことである。
然るに、メディアとは支配層のための大本営発表機関であるからメディアの言うことを鵜呑みにしていてはいけない。
メディアは「欲しい」だけのものを「必要」とすりかえるのが大の得意である。
したがって、欲しいものと必要なものの区別を厳密につけることが消費者責任を果たすには必要である。
消費者責任を果たせないのはメディアスレーブだからである。
権力装置を止めたければ、無駄なものにカネを出さないことであり趣味ごとやレジャーを止めることである。

あなたが無駄遣いしたカネが、回りまわって権力システムを回し続けていることになるのである。

今のチャンネルを始めた時に投げたツイートを貼り付けて本稿を締める。

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