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両寺院における、本当の真相 その1

忌まわしき敵宗門に引きずり込まれたのは2003年9月のことであった。
現在途中まで公開している回顧録は、今のところその手前のところで止まっている。
先の記事でも書いたように宗門と創価は裏で繋がっているので、この連合軍が私に対する全てのハラスメントを画策し、行ってきたものということになる。
除名にしたモラ母が創価学会に関わったことが全ての原因の始まりであるといえる。
今でも宗創は一体だが当時は名実共にであったので、恐らくそれが全ての始まりであったといえる。
1988年にモラ母が死んだことで、一旦は宗教から足を洗うこととなったのだが、これも曰くつきであり、決して評価は出来ない。やはり自分の意思で自分から足を洗ってこそ真の自立であるといえるのではないか。
そうでなかった故に、後年に至るまで敵の思うがままとなってしまい、今日の不幸に繋がっている。

これまでに惹き起こされた全てのハラスメント、交際事犯、裏切り、争いごと、一家離散と孤立化、そして全ての運命操作が宗創をはじめとする敵一味によって画策され、惹き起こされたものである。
それには裏に回っての根回しや風評の流布、無線技術・脳波技術を悪用したテクノロジー犯罪による感情操作などありとあらゆる手段が使われてきたのである。

忌まわしき宗門に引きずり込まれる数年前から、敵はさまざまな策略によって人生には不要なものを捩じ込み、或いは焚き付けることによって経済的圧迫や本来とは違う人格の演出などを行っていた。
回顧録にもあるように風俗地獄への誘導、「バイク」の捩じ込みや「鉄道趣味」の焚き付けなどを敵は行い、「その日」に備えていたのだ。

かくして2003年8月、敵の捩じ込みによって「鉄道趣味」のせいによる「関西遠征」に行かされることとなったのであるが、ここに敵はとんでもない罠を仕組んでいたのである。
他ならぬ石之坊講員、岩下を敵はその帰路に送り込んできたのだ。
本件は明らかに宗創一体の謀略であり、真実の追究を決定的に遠ざけるべくその総仕上げとして宗門寺院に引きずり込み、宗教の教義でもって目暗ましとし、自分たちのしてきたことに気付かせないままで決定的な不幸に陥れようとしたのである。

2003年9月に石之坊に足を運ばされた(間違っても自ら足を運んだのではない。敵の誘導による罠であり本意ではない故にこの表現を用いるのが正しい。)訳であるが、その日から敵はおかしかったのだ。
敵連中は、確認をさせないようにあれよあれよの間にコトを進めて、気が付いたときには本尊下付まで行っていたのである、これが真相である。
私はあくまで話を聞くだけのつもりであり、そこまでは考えていなかったのである。
では確認をすればいいではないかというかも知れんが、そもそもそそくさと話を進めたのみならず、それに抵抗をさせないように感情操作を行い精神誘導をしていたのであるから、当たらない。
そもそも敵は確認をしない、させないようにそのような癖をつけさせないようにしていたので、確認するということ自体が不可能であったということになる。
なぜなら、確認をされては早々に「安心できるウソ」のボロが出てしまい、引きずり込めなくなってしまうからである。

こうして自宗に私を引きずり込んだ敵は、都合の良い誘導を長い年月に亘って行い不幸を決定付けるべく、悪辣な策謀を次々と実行に移していくのである。

敵がまず行ったのは、信心の名の下に当家の経済を破壊し、金銭的余裕を与えないようにすることであった。その狙いについては後述する。
石之坊(講頭)は入信させた9月だけで三度も遠路本山まで半ば強制的に参詣させ、約4万円もの経済的負担を強いたのである。

これによって当家の経済は崩壊した。そこへ以って敵に強要されていた「鉄道趣味」による経済的負担が重なり、台所は火の車となりその日暮らしを強いられることとなったのである。

その狙いは、筆者を敵一味があらかじめ取り決めていた誘導先に誘導し、そこから抜けられないようにすることであった。
この誘導先とは、狭義にはこの薄汚い辺境の地のことであるが、取り決められた誘導先はそれだけではなかった。
つまり、どこの土地に誘導しどこの寺院に移籍させ、そして何の病気にかからせてどこの病院に誘導してそこに縛り付けるということまであらかじめ決められていたのである。
この取り決めをしたのは、坊ではなく(医療利権精力を含む)一味の実務レベルのトップクラスの連中ということになる。

このような情勢となっていた翌年、坊に新たな工作員が入ってきた。
通称門外漢女である。この通称は当方で付けた物であるが、知りもしないで人の生活に土足で踏み込んであれこれ注文をつけた門外漢、という意味でつけられたものである。
この工作員の真の任務は、徒に近づかせて「根掘り葉掘り」を行わせること、そしてそれによって意図的にミスリードをすること、そして自らが目立ち矢面に立つことであとでハラスメントが発覚してもハラスメントを行う者の正体(宗門をはじめとする敵一味であるということ)を隠蔽し、この女が主導しているかのように思い込ませることにあった。
この者の入信の経緯を不審に感じたことがあったが、工作員として白羽の矢を立てたのは石之坊住職であるので、入信の経緯は大して問題にならない。

そして敵一味が仕掛けたのが「自動二輪圧殺の演出」と「予定していた誘導先の土地への誘導」であった。
門外漢女が惹き起こした事件のひとつに「デジタル一眼スキャンダル」があるが、そもそも鉄道趣味の焚き付けが無ければデジタル一眼など必要なかったのであり、全ては敵一味による大掛かりな策謀の一部に過ぎないということである。
門外漢女は、筆者が撤回をしない程度に「反対する振り」をすることで反発心を起こさせ、以ってこの薄汚い辺境の地への誘導に寄与したのである。
そして、全ての誘導が完了すると門外漢女は疎遠になったのである。所詮は謀略のために近づいたに過ぎないということであり、典型的交際類似事犯であるといえる。

門外漢女は、全体から見れば単なる最下級のザコに過ぎず、単なる一工作員に過ぎない。
敵は最下級の雑魚を叩かせることで親玉の寺ぐるみがばれないように取り計らったものであり、ボスである宗門一味の関与を隠蔽し、宗門に縛り付けておけるようにするために最下級のザコに責任をスリカエたということである。

敵一味は、あくまで真実の追究から遠ざけるために宗門に引きずり込んだのであって、幸せに導くつもりも無ければ(その力も無いがな)、熱心に信心に励ませるつもりも無かったのである。

こうしてスリカエに成功した敵一味は、あれよあれよの間にさまざまな策謀によって筆者を決定的に不幸に貶める工作を行っていったのである。

この間には、抗がん剤による父の毒殺、その後の離間工作による一家離散といったものが行われたが、この坊において惹起した大型事件が二つある。

ひとつは「石の湯事件」である。これについては後述する。
もうひとつが、2007年惹起の「受付恫喝事件」である。
これは、単に坊の規模にとどまらない大規模かつ大掛かりな謀略事件であり、敵一味総出で行われたハラスメント事件である。
これは、「デジタル一眼スキャンダル」による産物のカメラを処分しようとしたことに絡んで感情操作を行い、売却の必要の無い機材まで売らせしかも不要かつ高価な社外品を買わせたことによる資金の枯渇により資金をはたかせ、以って帰りのバス代を確保するのがやっとの状況に追い込んでおきながら、支部総会の受付で供養が出せないことに対して恫喝を行わせたものである。なお、問題のカメラ店も敵一味のヒモ付きであったことが後年に発覚し、取引禁止処分となっている。問題のカメラ店は、敵の精神的誘導によってこのとき初めて足を運ばされたものであった。
したがって、この事件も単に受付の講員による個人的犯行では決してなく、恫喝を行うように何者からか指示が出ていたものである。

一方の2008年惹起の「石の湯事件」に筆者は関わってない。
この事件は、ネットのSNSに絡んで運営者の講員を焚き付けておきながらそこにケチをつけさせ、以って当該講員をスケープゴートにして、かつ2005年に就任していた当時の講頭を辞任に追い込んだものである。
この事件が起こされた理由は、特段筆者と関わりのあるものではないが、やはり住職の意に沿わぬ者を放逐したかったということではないかと思われる。
逆説的に言えば、住職と関係の深い人物が講頭でないと都合が悪いために惹き起こされたということではないかと思われる。それだけにしてはずいぶんと大掛かりなことをしでかしたものである。
この事件自体、特段筆者は勿論のこと門外漢女の利害にも特段関わりのあるものではなかったが、この事件が後になって門外漢女に全てをなすりつけスリカエるために利用されることになるのである。
利害には関わりが無かったようだが、門外漢女はこの事件で体制側に付き、紹介者である当時の講頭(辞任の後移籍)と決裂したようである。
私には関係ないが、仕事で使ってもらっていながらこの手のひらの返しようには開いた口が塞がらない。
なお、後に講頭に復帰した山崎某は「私は知らない」と白を切っていたが、体制ぐるみで行われたものを知らないはずは無く、詳細は不明だが何らかの形で事件の惹起に関わっていたのではないかと考えるのが自然である。

石の湯事件以降、筆者は急速に講の中で孤立するようになったが、それも狙いの一つだったのではないか。
つまり、もうひとつの「誘導先」である「地元寺院」への誘導を敵一味は本格化させたということだろう。

このころになると、父を宗教に引きずり込んだ大塚という男が、自分の担当地域でもない筆者の元をたびたび訪れるようになる。
一方で本来の管轄であった北関東地区の幹部は一度も来なかった。
これには理由があったのである。
つまり、大塚が勝手に行ったことではなく、坊サイドの指示によるものだということである。
恐らく、坊自称幹部「龍神ひろし」(阿見在住で北関東エリアに該当)が、この時点で既にエリア責任者だったということなのではないか(あくまで推定ではあるが)。

石の湯事件のあと、石之坊ではネットが禁止となっていたが、この龍神ひろしはこの当時からブログをやっているのが確認されている。これは明らかなダブルスタンダードであり、片方でネット禁止を標榜しておきながら龍神ひろしにはネットをやらせているということになる。
どこまでもご都合主義なのである。
これでは到底創価のことなど言えた義理ではなかろう。同じ穴の狢である。

僧侶の序列は厳しく、より上位の僧侶が指示しないことを勝手に出来るほど甘くは無いことを考えると全ては宗門ぐるみだったということになろうか。
つまり全てのハラスメントや交際事犯など、宗門寺院において惹起したことは全て宗門上層部の指示、ということになる。

2009年1月には思いつきで参詣したところ住職夫人から一方的に罵倒され、思わず寺を飛び出したという事件もあった。これはいきなり行っても「登山」(要するに大本尊内拝)はできない、ということを私は承知でいったのだが、にもかかわらず罵倒されたというものである。
やはり、罵倒させるために参詣を思いつかせた精神操作だったのではないだろうか。
テクノロジー犯罪の犯人は宗門側だ。

そして8月。
仕方なく続けていた仕事が行き詰まり(これも一味の策謀が絡んでいる)、私は出直しを決意したのだがここで感情操作が行われ、向かってはいけない寺のほうに向かわされたのである。
2009年9月13日。
8ヶ月ぶりに参詣した私の目に、信じがたい光景が飛び込んできた。
坊玄関前に、明らかに新入と思しき若い講員数名がたむろしており、その中の一人が
「てめえから挨拶してこいってんだ!」
などと恫喝してきたのである。
もちろんそれに応じる訳など無いが、私の記憶違いでなければ、それが龍神ひろしだったのである。
奴の本名については既にネットで拡散されているのでここでは割愛する。

普通であればそこで気付いてもよさそうなものであったのだが、敵一味の洗脳の影響下にあったことでそれが妨げられたという経緯がある。

翌月も足を運ばされたが、さすがに失望を隠しきれず、足が遠のくこととなった。
その後、11月に大塚が電話口で「日払いで働け」などと恫喝してくるという事件があったが、既に公的制度を利用する手立てを済ませていたので実害は無かった。実害こそ無かったが、この一件は石之坊から心が離れるには十分すぎる決定打となった。

その後、敵一味によって就業への動きを押し止められているうちに時は流れ、約半年後の2010年4月に事態が動き出す。
石之坊からの脱退を一家で決定したのだ。
そして、石之坊の講頭に復帰していた山崎との間で激しい戦闘が行われた。
電話口での戦闘において、山崎は「お前のためを思って言ったんだろうが!」という趣旨の暴言にまで及ぶという事態となり、完全に敵対者としての本性を露呈したのであった。

話し合いの要求に対して、敵側は4月10日を指定してきた。
これには目的があった。
敵側の意図に反してそのままフェードアウト(宗門から完全に脱退すること)することを妨げる狙いである。
指定日の翌日は、敵宗門の寺院で「御講」が行われる日であった。
日にちを置かないことによって、考える時間を奪い意図に反してそのまま宗門から離れることを妨げたのである。
敵側の意図とは、「地元寺院」つまり法悦院に移籍させるということである。
それが証拠に、住職・山根は一方的に法悦院を移籍先に指定してきたのである。
当方には、そのような意図は無く、その後については何も決めてなかったというのが真相である。
当方は、当日に門外漢女を話し合いの席に同席させることを要求したが、当日に来訪予定があったにもかかわらずこれに応じなかったのだ。
応じなかった理由は二つ。
一つは、話し合いに同席させることによって激しい非難に直接さらされる事態を防ぐため。
山崎ですら手を焼く相手を同席させたらどうなるか。
そこでポロッといかれては困るということだったのだろう。
要するに、実行犯を寺ぐるみで守ったということだ。
もう一つは、疑念を解決させないことによって引き続き、門外漢女の存在を寺ぐるみ関与の隠蔽とハラスメントに利用し続けるためである。
1時間の予定だったが、話し合いは20分で終わった。ほぼ一方的な侭で。

なお、門外漢女は2010年4月に横浜地区の地区長に任命されている。
龍神ひろしの虚言癖から云って、今でもその地位にあるものと思われる。
いずれにしても、長年寺ぐるみの工作に貢献してきたことに対する褒美として地区長の椅子を与えられたのではないか。
対照的に龍神ひろしは入信してそれほど経たずに地区長になっているが、新規の任命であり(前任者が無いという意味)、人材不足から起用され、その後精鋭工作員としての教育を受けたのではなかろうか。
その時期は2008年から翌09年の前半にかけてということになる。
玄関口恫喝事件の時点で既に精鋭としての本性を見せていたことからそのように推定する。
しかし、どこまでも宗門の意向に忠実な工作員という意味ではなんらその本質は変わりが無い。
ともに傘下のカルトからの転籍であり、工作にはもってこいの人材であったということである。

長くなったが、以上が石之坊における大まかな真相である。

両寺院の者による押し掛け事件が惹起したのは、その約5年後、筆者が宗門を脱退した後のことである。
内容に問題があるのであれば、なぜ宗門在籍中にやらなかったのか。
それは、筆者が宗門に籍を置く限りにおいては隠蔽のためにその敵一味が刷り込んだウソでたらめを利用し続けなければならなかったからだ。
そうでなければ、ウェブ上での連絡も可能な状態であった故、そこに連絡して訂正を要求すればよかっただけの話である。
もちろん、弾圧惹起の時点でもメールフォームが生きていたので同じことが言えたはずである。
ところが、敵講員どもはその手段を「あ・え・て」取らなかったのだ。
つまり、ワザと怒らせて罪悪感を植えつけることでそのまま言いくるめて敵宗門に引き戻し、皆で言いくるめて精神科に放り込み抹殺することが目的だったのだ。
正しいことをしているはずの団体が、なぜ苦情を潰して人格ごと抹殺するようなことをしているのか。
苦情が表沙汰になっては布教が立ち行かないほど、悪いことをしてきた団体だということだ。
近年だけの話ではない、日興以来の捏造カルトだったということである。
それが故に、10年と経たないうちに日向に取って代わられて久遠寺を退出しなければならなかったのだ。
日興は異端だったのである。
その辺については、信頼できるサイトに詳しく掲載されている通りである。

「迫害されてきた」は、それこそウソでたらめだったのである。
実際には、敵宗門こそが異論を迫害し続けてきた団体だったのである。

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